December 02, 2006

「ワインと戦争」

先週ここで日本人を対象にした「ワイン・セミナー」が開催され、盛況のうちに終わったようである。今この平和な時代のセミナーでは各国のワインが紹介されていたようだが、フランスのワイン農家は第二次大戦中にドイツの占領の下、数知れぬ艱難辛苦を経験させられた。我が家のワインご指南役の友人の薦めで読んだ表題の本には、その時代の人々の生き様が語られている。

副題は「ヒトラーからワインを守った人たち」となっているが、お酒を飲まなかったヒトラーよりもゲーリングを初めとするナチス幹部の命令の下、戦場の兵士や占領軍が様々な形で何千万本ものワインやシャンパンを徴発して行った。緒戦であっけなくフランス軍が降伏すると、ドイツはフランスを代表する文化でもあり心でもある「ワイン」に目をつけて、それをタダ同然にでも入手して楽しむと同時に、商売をして儲けようと思ったのである。

ところがこのドイツ軍の企みは色々な形での抵抗に遭い、当初の期待ほど上手く行かない。文化を守ろうとするフランスの農家の行動は素朴であり巧みでもあった。例えば、

- ワイン倉の壁を塗りつぶしてワインを隠す。
- 質の悪いワインに高級ブランドのラベルを貼ってドイツに送る。
- 地下のワイン倉庫にユダヤ人をかくまって国外に脱出させる。

というなことを次々と危険を冒してでも行なわれたら、どう見ても占領している側の方の分が悪くなる。しかも迷路のような地下のワイン倉庫は、レジスタンス活動にうってつけの場所である。

収奪を効率よく行なうためにドイツからフランス各地に派遣された「ワイン総督」は、元々事情に通じた同業者であり戦後の商売のことも考え、100%ナチスからの指令に従った訳ではなかった。その一方で戦後に対独協力者として裁判にかけられたワインのネゴシアン(仲買人)もいる。この辺りの国と国との対立とワインというビジネス&文化に対する個人の心情との関係が特に興味深い。

実際に出征したワイン農家出身の兵士の話、特に捕虜収容所でのワイン・パーティの話は感動的だった。年間一人100リットル以上のワインを飲む時代で、数年間の虜囚生活を経てようやく一人一杯のワインを手にした時の感激はいかほどのものだったろうか。

こうした先人達の苦労の上に現在のワイン産業や文化が花開いている。ワインの味は如何に出来上がるまでの工程に愛情を注ぐかによって決まると言う。それは今作っている人の愛情だけではなく、歴史上の名も無い人たちの努力の積み重ねでもあるということが認識できた一冊だった。

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October 08, 2006

KGB (新潮選書)

友人から借りた表記の本を読み終えた。読み始めてすぐに時代感覚が違うなと感じたが、原作は1982年、日本語訳もその翌年というまだ冷戦時代でKGBがアクティブに活躍していたころの本である(当時の組織図入りの解説付き)。

特に西ヨーロッパ諸国やアメリカの情報機関にいかにスパイを送り込んで浸透していたかが興味深い。例えばイギリスではMI-5やMI-6といった情報機関に浸透し、1981年には90名もの外交官や通商代表部のメンバーが国外追放になっている。西ドイツでもブラント首相の私設秘書の一人がKGBのスパイだったので、情報が筒抜けになっていたとのこと。それにしても国内外にこれだけ時間とお金を掛けて監視の目を光らせて、それに見合うだけの情報が得られたのだろうか。ホテルの部屋は盗聴器が付いていて当たり前、貿易商などの民間人を装ったエージェーントもごろごろ、チェコスロヴァキアなど東欧諸国のスパイも活用ととどまる所を知らない。この調子であらゆる官僚を維持するだけで国庫が空になってしまいそうだ。

特に興味深いエピソードに、天才ピアニストと賞賛されていたウラジーミル・フェルツマンの話がある。彼は「イスラエルに亡命できないか。」とある人に相談を持ちかけただけで、その2時間後には全てのレコード店に彼の演奏の入ったレコードを撤去するよう命令が出たとのこと。国際的に知名度のあるピアニストでも、国を裏切りそうな発言一つですぐその筋に密告され、結局1ヵ月後には全てのレコード、コンサートのポスターなどから彼の名前が消え、実質演奏家として生命の危機に瀕してしまった。(数年後に亡命したという。)

またニューヨーク駐在のチェコのカレル・ジシュカ外交官夫妻が、クリスマスに2人の子供を呼び寄せて亡命できないかと自宅で相談したことがKGBの知るところになり、程なくエージェントが奥さんを惨殺。それを発見した本人も逃亡した上で拳銃自殺をした例もある。可哀そうにこの子供達はその後どうなってしまったのだろうか。

ナチス統治下のハンガリーで10万人以上のユダヤ人を救ったとされるスウェーデン出身のラオル・ワレンバーグも、ブタペスト開放時に米ドル札を持っていたためにスパイの嫌疑を受けてソ連が逮捕。その後数十年にわたって極寒の地の収容所を行き来させられているという。(実際には数年後に獄死したとの説が強い。)

今は時代も変わってきているとは言うものの、この警察国家の名残はまだロシアを初め様々な国に残っているはずで、それを考えると背筋が寒くなりそうだ。それにしてもわずか20年ほど前には、まだこのような理不尽な巨大組織が、強大な権力とプレゼンスをもって活動していたということは驚きである。

PS. ここまで書いた後に、ロシアで反プーチンの記事を書き続けていた女性ジャーナリスト・アンナ・ポリトコフスカヤ氏が銃殺されたとのニュースを発見。KGBのDNAは今でもアクティブに活動しているのだ。

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September 24, 2006

歴史解釈の難しさ - ヴァンゼーにて

ベルリン旅行から帰る途中に、ベルリン郊外あるヴァンゼー会議記念館 (Gedenkstaette Haus der Wannsee Konferenz) に立ち寄る。ここは1942年1月にナチスの幹部が集まってユダヤ人問題の「最終解決」が決定された場所として知られている。ヴァンゼーは湖に面したベルリン郊外の高級住宅地で、ヨットが沢山係留されている別荘地のような所。そのような決定がされたとは思えないようなのどかな雰囲気である。

この博物館は会議そのものというよりも、ナチスによるユダヤ人迫害の歴史をわかり易く説明した展示場になっている。この手の展示は何回か収容所跡地などで見てきたが、ここは全ヨーロッパで起こったことが年代を追ってコンパクトにまとめられている。特にユダヤ人の女の子達が学校で撮った集合写真(1919年)には胸を打たれる。一体この子達のうち何人がホロコーストを生き抜くことが出来たのだろうか。この時には誰も予想しなかった運命が待ち受けていたのである。少なくともほぼ全員が人間の尊厳を否定されるむごい仕打ちにあったことだけは確かである。

このホロコーストについては、いまだに犠牲者の数一つをとっても論争が繰り広げられている。一般には600万人のユダヤ人が命を落としたとされるが、数十万人だったり、あるいはガス室での処刑自体存在しなかったとまで言う人もいる。ここヴァンゼーでの会議も、ユダヤ人の虐殺が最終決定された場所ではないという説も根強い。会議自体ヒトラーやナチスの幹部は出席していないこともあり、「最終解決」は「収容所での処刑」であるとは限らない(例えば東方への移住)という解釈もあるからだ。

わずか数十年前の話ですらこれだけ曖昧なのに、これから先歴史的に「正しい」ということはどのように伝えられていくのだろうか。歴史はあくまでも主観の問題であって、客観的に「正しい」ものはないともいわれるが、それにしても解釈が違い過ぎる。経緯やプロセスは様々だが、職務に忠実なドイツ人が上官の指示に従って事務的に処理を行った結果の積み上げが大勢のユダヤ人の死であったということだけは確かなようだ。この後に訪れた湖畔のレストランで、ドイツ人ウェイターの勤勉な態度を見てふとそう感じた。

<湖畔に建つ記念館>
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August 30, 2006

身近な歴史を訪ねて -アンネ・フランク

昨日のブログに身近にある歴史の話をしたが、例えばここアムステルダムには、アンネ・フランクの家がある。「史跡」と言うにはあまり年月が経っていないが、今は博物館として毎日長蛇の行列が出来ている。

オラニエ公が気になったのは運河沿いのこの有名な「隠れ家」ではなく、その前にフランク一家が住んでいたアパートである。これは何故かほとんど知られていないが、今でも当時のままにアムステルダムの南地区(Zuid Amsterdam)に建っている。メルヴェデ通り37番地というごく普通のアパートの三階部分で、特に何の看板も説明もなく、普通の住居として人が住んでいる。アンネの話はここオランダではあまり話しにしたがらないようだが(オランダ人が裏切ってユダヤ人を密告した話だからか)、ここの住人はこのことに気がついているのだろうか。

このアパートの同じ建物の大通りに面した一階には、アンネの父オットーが日記帳を買った文房具店が今でも営業している。随分と歴史のあるお店だ。またここから歩いて十分位のところ、RAIという展示会場の近くにアンネの通っていた学校(モンテッソーリ・スクール)がある。カラフルに塗られた壁が目立つこの学校に、アンネ・フランクの名前が刻まれている。

ここの日本人駐在員がよく行く寿司屋さんのすぐ裏には、アンネの姉マルゴーが通った学校が今でもそのまま残っている。そうとは知らずにこの学校の脇に車を停めて、お寿司を食べに行った日本人は沢山いるはずだ。まさに隠れた歴史の跡がこんな身近にあるのである。


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フランク一家のアパート

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モンテッソーリ・スクール

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姉マルゴーの通った学校

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August 29, 2006

ワインと英仏百年戦争

最近オラニエ夫人がワイン好いて、先月もフランスのワイナリーを巡る旅に行ってきたところだ。そこで訪れたシャンパーニュ地方の中心ランスの街でジャンヌ・ダルクの勇ましい騎馬像を発見。昔世界史で勉強した「英仏百年戦争(1337~1453)」の時代に活躍した女傑だ。ところが彼女の名前や百年戦争という名前は覚えていても、実際のところ何がどうなってジャンヌ・ダルクが現われ、最後には火刑にされたのかはわからない。そんな疑問に対して分り易く解説してくれたのが、「英仏百年戦争(佐藤 賢一):集英社」である。この作者は直木賞受賞作家らしく、硬くなりがちな歴史のストーリーを興味深く飽きずに読めるように語っている。

そう言えばこの前に見たNHKの「探検ロマン・世界遺産」で、ボルドーの近くのワイン産地サンテミリオンが紹介されたときに、イギリスから王女が嫁いできたとかいう説明があったことを思い出した。実はこれも百年戦争に関わる史実で、この戦争まではボルドーやアキテーヌ等のフランス西南部はイングランド王国の領地だった。というよりも「文化的にも進んでいたフランスの地域の征服者が建てたのがイングランドで、今のフランス西南部こそがその本土に当たる。」と上述の本に詳しく説明されていた。ボルドー・ワインがイギリスで今でも広く飲まれているのには、こんな歴史的な背景がある。

こうしてワインと英雄が織り成すような歴史物語が、結構身近に存在しているというのがヨーロッパである。訪れる史跡にこと欠かないこの大陸に生活していることは、歴史好きのオラニエ公としては堪らない悦びである。

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ジャンヌ・ダルク像とノートルダム大聖堂(ランス)


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August 24, 2006

ユダの福音書を追え

タイトルの本(日経ナショナル ジオグラフィック社)を読み終えた。

この本は1970年代に発見されながらも、二十年以上もの間様々な人手に渡って専門的な解読がされなかった「ユダの福音書」の数奇な運命をたどるノンフィクションである。但しこの発掘から転売、そして解読までのストーリーと、福音書の内容についてが順繰りに現れるので少々読みづらい。「ユダの福音書」そのもの(例えば"正統"な福音書との詳細な比較)については他の本を探して読む必要がありそうだ。

感想としては「ユダの福音書」の内容そのものよりも、それをめぐる古美術商の業界の実態というかお寒い内幕が分かって興味深かった。例えばエジプトにいる古美術商の大半は、そこで発見あるいは盗掘される文化財の価値などほとんど分からず、それがいくらで売れて生活を楽にさせてくれるかだけが関心事だ。だからこのキリスト教の歴史を覆しかねないパピルス文書も、法外な値段を吹っかけて売れないと分かると無造作に銀行の貸し金庫にしまって忘れられ、さらにその間に劣化が急速に進んでしまった。気がついたときにはもうボロボロで、さらに一儲けしようとする輩(アメリカ人)の手によってバラ売りされて一部は散逸してしまったりする。今までの歴史の中でも、このようにして発見されながらも人手に渡って朽ち果てていってしまった史料が沢山あるのだろう。

このストーリー上にはヨーロッパ、エジプト、アメリカの様々な面々が現れるが、その中の大半はこの古文書で一儲けすることばかり考えている連中である。まさにこの古美術の業界というのは、学究を極めようとする一部の学者達とその一方で儲けることしか頭にないハイエナのような商人が混在しているという、極めていびつな世界だ。いかに考古学というものが危うい基盤の上に成り立っているか理解できた。

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February 24, 2005

レーニンをミイラにした男

タイトルの本(文春文庫)を読み終えた。

こ存知の方も多いように、レーニンの遺体は火葬にも土葬にもされることなく、今もまだモスクワの赤の広場にあるレーニン廟に安置されている。特殊な防腐処理によって生前の顔かたち・色が保たれている稀有な例だ。この本の作者はその保存に関わってきた化学者によるものである。

どうすれば腐らずに保存できるかと言うと、体内では大動脈にグリセリン、ホルマリンといった液を流し込み、体全体をアルコール、ホルマリン等の物質による「バルサム液」というものに浸して乾燥を防ぐ。シワやシミは酢酸と水を混合させて漂白させる(?)などという具合だ。このようなことが可能であると言うことがまず驚きであった。

更にこの処理自体は「政治色」が非常に強く、レーニンの後は社会主義国の独裁者(ブルガリア首相ディミトロフ、モンゴル大統領チョイバルサン、ホー・チミン他)を中心に個人崇拝の対象となるような人にばかり施された。ところが時代が変わって今でも保存・公開されているのはレーニンだけのようだ。やはり生前の姿のままに保存すると言うのは、代の東西を問わず誰にとっても不自然なのであろう。この科学技術も20世紀の遺物になるのか。

またこれを進めていた「レーニン廟付属研究所」はソ連崩壊で資金が厳しくなると、ロシアン・マフィアを主な顧客にした死体保存ビジネスを展開したと言うのも笑える。マフィアは暗殺される事が多く、葬儀の時まででも銃痕をきれいに直したりするのにそれまでのノウハウが非常に役立ったようだ。金払いも良かったのだろう。

政治と言えばスターリンの恐怖政治は、彼等にも例外なく影響を与えた。ユダヤ人ということでその父親が逮捕され自らも職を失ったり、旧知の共産党幹部(ルイコフ、ブハーリン)の粛清裁判を見届けたり、筆者はとにかく大変な時代を生き抜いたのだった。こういう人の書物にはいつもその重みが感じられる。

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February 18, 2005

ケネディはなぜ暗殺されたか

タイトルの本(NHKブックス)を読み終えた。

ケネディ大統領の暗殺は、20世紀の謎の一つとして真相は未だに闇の中にある。この事件はオラニエ公が生まれる前の話で、印象に残っているのはオリバー・ストーン監督の映画「JFK」のケビン・コスナー演じる検事の熱演と、フィルムに撮られた生々しいケネディ大統領の撃たれたシーンである。この本はそんなおぼろげな印象を事実に基づいた具体像で置き換えてくれた。

まず理解できたのは、ケネディ大統領は暗殺されるべくして暗殺されたことである。当時のアメリカ社会の中でケネディ政権の支持率は高かったが、その一方で過激な分子を中心に不満は最高点に達していた。とりわけ次のグループはケネディを「裏切り者」として邪魔に思っていた。彼等は特に手ごわい連中ばかりで、これらが束になって掛かって来てはアメリカ大統領と言えども命は保障されなかった。
(1) 亡命キューバ人グループ (大統領の反カストロの政策の生温さに反対)
(2) 全米のマフィア組織 (ロバート・ケネディ司法長官のマフィア撲滅作戦に激怒)
(3) CIA、FBIの一部保守派 (反カストロ活動、ベトナム積極介入等を強引に進めたいが大統領の反対に遭う)
更にはこれにダラス市警察、大統領シークレットサービスの一部(?)などが加わった陰謀によって、ケネディは1963年11月22日にダラスで銃弾に斃れた。もしそこで失敗しても、近いうちにまた狙われていたことも確かである。とにかく厄介な敵が多すぎたのだ。

またアメリカ人の理想ともされているケネディが、実はそれ程身の回りはきれいな人間ではなかったということには驚いた。彼の父はマフィアめいた事をしていたし、彼自身選挙の際にイリノイ州でのマフィアによる不正がなければニクソンに敗れていたと言われる。またジャクリーヌ夫人との絵に書いたような円満な家庭はうわべだけで、実際には浮気もほとんど公然と行なわれ(マリリン・モンローも)、しかもマフィアに繋がるような女性とも付き合っていた。そうした中で理想に燃えた弟ロバートが、反麻薬・反マフィアの取締りを厳しくしたものだからその手の筋からの反発は大きかった。上記の不平不満グループの中では、マフィアが最も直接的に手を下したであろうことが推測される。

とても不思議だったのは、最高権力者の暗殺という大事件にも関わらず、その原因については全てが真実から遠ざけるように力が働いていたことである。調査委員会の「ウォーレン委員会」は政界や司法界の蒼蒼たる面々で構成されたにもかかわらず、「史上最大の身代わり」といわれたオズワルドの単独犯行、という当局に最も都合の良い結論につながらないものは全て無視した。しかもその無視した理由は理不尽なものばかり。大統領暗殺の真相究明よりも、各利益団体やマフィアの地位や利権、金儲けが第一義に考えられた。しかもそのインチキに最も熱心だったのがFBIとCIAであり、特にFBIの息の掛かったフォード委員(後の大統領)がその先兵だったというのは驚くしかない。

また暗殺犯とされたオズワルドにはFBIのエージェントだったらしい経歴があり、彼を銃殺したジャック・ルービーもFBIやマフィアとの繋がりが見え隠れする。更にはCIAが一枚も二枚も咬んでいるようだ。彼らは自分の意志に関わらず、周りから「役者」としてアサインされてしまったのであろう。治安を守ることを主な任務としている組織(FBI、CIA)は何故かその逆の方向に強力に向いてしまった。

「利益を共にする過激な組織の複合体による謀殺」というものが民主国家でほぼ完全犯罪のように成し遂げられ、真相究明も闇の中に葬られるべくして消える。こういうことが現代でも起こりうることの驚きと恐れを十分に感じさせる一冊だった。

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February 08, 2005

物語 バルト三国の歴史

タイトルの本(中公新書)を読み終えた。

この本は現在EUの新規加盟国として注目されているバルト三国の歴史を一通り読み易く紹介している。この手の新書での歴史本では「クセジュ文庫」がよくあるが、このシリーズはフランス語を訳したものらしく、どうも読んでいて面白くない。その点この中公新書は「物語」というだけあって親切である。

特に最も興味深かったのは、常に三つ子のようにまとめて考えられている三国の歴史は「エストニア・ラトビア」と「リトアニア」では大きく異なっていることだ。前者二国は第一次大戦前には国家としてまとまった歴史が無く、ドイツ騎士団の流れを汲むドイツ人の影響を受け商工業もある程度発達していた。一方リトアニアは中世に大国として台頭し、ポーランドと常に密接な協調・対立関係にあり、産業としては農業中心の地域だった。また民族的には「ラトヴィア・リトアニア」はバルト系だが、「エストニア」はフィンランドに近いアジア系の流れを持つ。決して三国は「三つ子」ではなく、「三国」としてまとめて考られるのはつい最近になってからだということだ。

エストニア、ラトヴィアの地域は政治的には中世以降スウェーデン、デンマーク、そしてロシアの勢力下にあり、そこでは入植したドイツ人(バルト・ドイツ人)が貴族として大農場を経営し、政治的にも大きな力を持っていた。しかしこのドイツ人もロシア革命や第二次大戦時の混乱の中で多くは出国、亡命あるいは財産没収、流刑などの過酷な運命を余儀なくされた。国が生まれたり、国境線が引き直されたりというのは2つの大戦があった20世紀に最も頻繁に起こったが、その都度どこでも今で言う「民族浄化」のようなことが起きていたはずである。例えば「東プロイセン」という第二次大戦前のドイツの領土は、今はポーランド、ロシア、リトアニアに引き継がれ、そこに百万人単位で住んでいたドイツ人は今はもう跡形もない。偶々大国の思惑や戦争による「引き直し」の時期に居合わせてしまった犠牲者の苦労は計り知れないものがあったろう。身近な所では「北方領土」を追われた日本人もそうか。大きな勢力の中で翻弄され続けた人々の犠牲を十分に改めて感じさせられた一冊だった。

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February 01, 2005

アウシュビッツ解放60周年

先週は1945年にアウシュビッツ強制収容所が解放されてから丁度60年ということで記念式典が行なわれていた。会場にはアウシュビッツを初めとするいわゆる「絶滅収容所」で運良く生き永らえた人たちが多数参列していた。この人たちの年齢などを考えて、10年毎の大きな式典は今回が最後になるという。

アウシュビッツは東部戦線に位置していたので、結果としてソ連軍が解放した。そのため今回もロシアのプーチン大統領がキーメンバーとして参加していた。当時のソ連には何千もの「強制収容所」があった。そこは「絶滅収容所」のように民族の抹殺を狙ったものでないとしても、無実の囚人が過酷な労働をさせられ何百万人という人が命を落としていた。それでいてソ連は「解放者」として遇されるのだから、何だか「ミイラ取りがミイラ」のようでしっくり来ない。

それからこの手の話で不思議に感じるのは、加害者側の証言がほとんど出てこないことである。例えば「アウシュビッツでガス室の管理をしていました」、「囚人の護送と懲罰を担当していました、」というような人は何十人いや何百人もいた筈である。もちろん彼らは上から言われた通りに仕事をしていただけだろうが、その証言で戦犯になってしまうので敢えて真実を話そうとする人は少ないのだろう。それでもそれを承知で本当にあったことを勇気を持って話す人がいても良いような気がする。結局歴史の記録が曖昧になって、一部の誇張や誤った認識がまかり通ってしまう恐れがあるのだ。

まあ「真実を明らかにする事が一番正しい」というのが、必ずしも最も受け容れられる考え方とは限らないのが世の常である。過去からはやはり教訓を出すことがまず一番であると思う。

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